ポンコツが翔ぶ

オードリー・お笑い・サブカルチャー

人間社会が怖かった話

間髪を容れずに書いてみる。私のそもそもの話。

 

生きてきてしばらくは人間社会が怖かった。

 

最近改めて振り返ると今までそんな人生でした。みんなが当たり前のようにやりくりしている「社会のしくみ」が自分にはとても難解に感じられた。

 

「こんな時にはこんな風に振る舞うといい」ということが一つも分からない。みんなが持っているらしいマニュアル本が自分に無い感覚。みんなは同じ本を持っているらしいのに、私自身はそんな本があることも必要だということもしばらくずっと分からなかった。自然にやっていることを奇異の目で見られ、誤解され、「変わった人ぶっている」とすら言われ。それが自分の個性なのだと開き直ってキャラ付けをして空回りし続けた。何がおかしいのかも分からず、ずっとずっと苦しかった。そんな子供時代。

 

子供が普通に言うワガママ(甘えている。と理解するのにも時間を要した)

女の子が自然に使う媚び(媚びでも無いらしいと理解したのは相当後)

集団に属した時に言葉にしなくとも理解する関係性(それが思いやりでもあると理解できたのも相当後)

 

全部、全部、自分には備わっていない機能。なんでみんな言葉にしてそれがあると直接教えてくれないんだ。あまりにも言語化されていないマニュアルが多すぎる。ってずっと悩んできました。ね。これが私のポンコツの正体です。

 

その後美大に入ったり、海外に住んだりして、ある程度自分のズレや短所を長所に変換できる環境や仕事を手に入れてどうにかご飯を食べさせてもらってきました。

色んなことがだんだんクリアになってくると、世の中と上手くやっていけない。とむずがっていた自分はだんだんそれの正体は「自分と上手くやっていけていない」ことと同義だ。と理解できるようになりました。

 

そんな時に出会ったのが「オードリーのオールナイトニッポン」。

そこには自分と同じように社会に折り合いがつけられずに、自分を持て余して根本に突っかかって気を吐く若林さんと、それをどっしりと受けとめる春日さんがいて(とはいえなんだか変)。


「ここでしゃべっているのは自分だ」

 

と思った。それくらい特に若林さんの感覚は自分自身に瓜二つだと感じました。「たりないふたり」で明かした「足りなさ」が痛いほど理解できたし、プロレスを見ることで「受け身」を理解していく喜びに心から共感したし、お父さんを亡くしたことで「ベタを笑うことができなくなる感覚」に両親を亡くした身として深く共感しました。

 

色んな物事を「大人ってそういう風にしてるんだねぇ」みたいに語り合う二人のスタンスはまさに普段の自分と同じだと思ったのです。

 

今もポンコツ具合は継続しているし、完治はしないと思うし、というよりポンコツを受け入れて付き合っていくしかないのですが、もう「人間社会が怖い」は治りました。

とはいえ、「自分と上手くやっていく術」は未だに模索中ですし、社会とはなんとなーく距離を持って遠くから見ている感じ。


でも40歳になってみると、意外にそういう人たくさんいるんだなと気づきました。ポンコツでどうにか生き抜いてきた人。そういう人はやっぱり何かを創っている人に多くて、歪んでいたり、欠損していたり、でも、それがとんでもなく愛らしくて。そういう人や作品や表現に出会える瞬間がたまらなく楽しいな。というのが最近です。